富山県の中西部に位置する、砺波市雄神地区。
砺波市の中心部までは車ですぐ、と生活に便利な土地ながら、庄川沿いの豊かな自然が魅力のまちです。
どこにでもあるようで、ここにしかない風景を、探しに来ませんか。
庄川右岸の三条山山頂に築かれた中世山城です。
最高所の主曲輪を中心として西と東に伸びた尾根上に細長い曲輪を配置し、堀切や竪堀を設けて防御しています。
南北朝期の「得田章房・得江委員軍忠状」には、応安2年(1369)9月、幕府方の能登勢が桃井直常の拠る千代ヶ様城を攻略しています。北にある壇城との関係から、戦国期に壇城を拠点とした石黒氏が詰城として築いたとも考えられています。
砺波市ふるさと文化財(史跡)
この池は千代ヶ様城の飲料水とも伝えられ、嘉永(1848~)のころの雨乞いの古事からその名が四方に広がりました。
旱天続きで作物が枯死寸前に至ったおり、古老曰く「山上の池は深さ幾十尺なるやも知れず、その底 縄ヶ池と通ず。この神秘な池に雨乞いをしたら・・・」 村人皆これに従い、神官 藤井秀直祭主となり、真心こめて祈祷したところ、黒雲にわかに沸き起こって大雨となり、万物が生き返ったと伝えられています。
弁財天社は「元雄神神社」とも言い、庄川流域の治水の水神として、流域の人々の崇拝を集めています。33年毎に行われる「御開扉」には10万人を超す参詣者で賑います。
天正13年(1585)の大地震で庄川の流れが大きく変わり、当時この地に鎮座していた雄神神社の境内地を残して周辺の村々が流されました。時の藩主前田利長が激流の中に樹木が繁茂する島(境内地)を見て「水の神」である弁財天を祀るよう指示。その後、雄神神社は東側山裾に移転し、庄川の守り神として神社の御分霊と弁財天を祀る「元雄神神社」が創建されました。
砺波市指定文化財
壇城跡は、城主の居館と山城がセットで残る県内では珍しい中世城館遺跡です。住居部分の台所屋敷からは、建物の柱穴や基盤に使われた石、炭化物が広い範囲から発見されました。炭化物は、幾度かの落城で火災が起こったことを示すものと考えられます。また、堀切や土塁といった戦うための小規模施設も確認できます。南東の三条山にある千代ヶ様城と尾根伝いの連絡路でつながっていることから、平常時の城館が壇城、緊急時に立てこもる詰めの城が千代ヶ様城といった使い分けがされていたと推測されます。
砺波市指定文化財(史跡)
弁財天社は「元雄神神社」とも言い、庄川流域の治水の水神として、流域の人々の崇拝を集めています。33年毎に行われる「御開扉」には10万人を超す参詣者で賑います。
天正13年(1585)の大地震で庄川の流れが大きく変わり、当時この地に鎮座していた雄神神社の境内地を残して周辺の村々が流されました。時の藩主前田利長が激流の中に樹木が繁茂する島(境内地)を見て「水の神」である弁財天を祀るよう指示。その後、雄神神社は東側山裾に移転し、庄川の守り神として神社の御分霊と弁財天を祀る「元雄神神社」が創建されました。
砺波市指定文化財
中川光重は尾張(愛知県)出身で、初め織田信長に仕え、後に前田利家(加賀藩初代藩主)の娘婿となり利家に仕えました。後に巨海斎宗半と号しました。
天正13年(1585)、前田氏が越中三郡を領有すると増山城の守将に任ぜられました。増山城在時、寺禄3千歩を寄進して金剛寺村に恩光寺を再興しました。
文禄年間(1592~1596)に入り、一時期千利休門下の茶人として豊臣秀吉に仕えました。慶長19年(1614)53歳で没し、この地に葬られました。
砺波市ふるさと文化財(史跡)
南砺市福野にある金剛山恩光寺は、もともとこの地にありました。その開基は増山城主神保氏、開祖は月桂立乗禅師で、応永15年(1408)ころと言われています。
永正年間(1504~)、一向一揆の騒乱や天正7年(1579)長尾為景などの兵火につつまれ、無住、再興を繰り返しました。
今、この旧跡には薬師堂だけが残り、左右に大杉が二本聳え立っています。
樹齢は400年~500年といわれ、樹皮は赤みが強く芯づまりで、地杉の一タイプであると言われています。
砺波市指定文化財
金峯山金剛寺(こんごうじ)は、南北朝争乱時98代長慶(ちょうけい)天皇(てんのう)(南朝3代)の行在所として一ノ谷山(御坊谷)に、従者善恵師によって開山されたといわれています。寺の名前は長慶天皇が即位した河内長野の天野山金剛寺より名づけたものであり、寺院は修行道場をはじめ伽藍も整い周囲の寺坊を圧する主坊であったと伝えられています。永正元年(1504)堂宇を現在地に移し、浄土真宗金峯山西蓮寺に改称されました。
金剛寺村(金剛寺地区)は、この「金剛寺」をとって、村名にしたと考えられます。