雄神ってどんなところ?

美しい自然と歴史の郷

富山県の中西部に位置する、砺波市雄神地区。

砺波市の中心部までは車ですぐ、と生活に便利な土地ながら、庄川沿いの豊かな自然が魅力のまちです。

 

どこにでもあるようで、ここにしかない風景を、探しに来ませんか。

 

 

〈魅力その1〉

庄川沿いの穏やかな暮らし

 

 

 

〈魅力その2〉

爽やかな風の中に歴史が佇む

風になって    四季おりおりに姿を変える山の緑 庄川の清流とともに吹き抜ける爽やかな風
風になって    四季おりおりに姿を変える山の緑 庄川の清流とともに吹き抜ける爽やかな風

 

 

 

エドヒガンザクラの群生地

❶小嵐山(こあらしやま)

今は「砺波嵐山」と呼ばれる小嵐山は、古より卯花が咲き誇り、多くの歌人が「卯花山」と名づけ詩歌に詠み記しました。

明治42年、皇太子(後の大正天皇)の行啓を記念して小嵐山と命名されました。

小嵐山を中心に小牧発電所から弁財天社までの庄川右岸4㎞余に亘りエドヒガンザクラが自生し、4月を迎える頃には華やかに咲きそろい、多くの花見客で賑います。

 


中世の典型的な山城

❷千代ヶ様城跡(ちよがためしじょうあと)

庄川右岸の三条山山頂に築かれた中世山城です。

最高所の主曲輪を中心として西と東に伸びた尾根上に細長い曲輪を配置し、堀切や竪堀を設けて防御しています。

南北朝期の「得田章房・得江委員軍忠状」には、応安2年(1369)9月、幕府方の能登勢が桃井直常方の拠る千代ヶ様城を攻略しています。北にある壇城との関係から、戦国期に壇城を拠点とした石黒氏が詰城として築いたとも考えられています。

砺波市ふるさと文化財(史跡)


磁場ゼロのパワースポット

❸山上の池(さんじょうのいけ)

この池は千代ヶ様城の飲料水とも伝えられ、嘉永(1848~)のころの雨乞いの古事からその名が四方に広がりました。

旱天続きで作物が枯死寸前に至ったおり、古老曰く「山上の池は深さ幾十尺なるやも知れず、その底 縄ヶ池と通ず。この神秘な池に雨乞いをしたら・・・」 村人皆これに従い、神官 藤井秀直祭主となり、真心こめて祈祷したところ、黒雲にわかにおこり大雨となり、万物が生き返ったとつたえられています。


南北朝期の馬蹄が残る

❹奇岩馬蹄石(きがんばていいし))

弁財天社は「元雄神神社」とも言い、庄川流域の治水の水神として、流域の人々の崇拝を集めています。33年毎に行われる「御開扉」には10万人をこす参詣者で賑います。

天正13年(1585)の大地震で庄川の流れが大きく変わり、当時この地に鎮座していた雄神神社の境内地を残して周辺の村々が流されました。時の藩主前田利長が激流の中に樹木が繁茂する島(境内地)を見て「水の神」である弁財天を祀るよう指示。雄神神社は東側山裾に移転し、庄川の守り神として神社の御分霊と弁財天を祀る「元雄神神社」が創建されました。

砺波市指定文化財


中世の城館跡

❺壇城・台所屋敷跡(だんのじょうだいどころやしきあと)

壇城跡は、城主の居館と山城がセットで残る、県内では珍しい中世城館遺跡です。住居部分の台所屋敷からは、建物の柱穴や基盤に使われた石、炭化物が広い範囲から発見されました。炭化物は、幾度かの落城で火災が起こったためできたと見られます。
山城では、堀切や土塁といった戦うための小規模施設が確認できます。南東の三条山にある千代ヶ様城と尾根伝いの連絡路でつながっていることから、平常時の城館が壇城、緊急時に立てこもる城が千代ヶ様城といった使い分けがされていたと推測されます。

砺波市指定文化財(史跡)


元雄神神社 庄川の守り神

❻弁財天社(べんざいてんしゃ)

弁財天社は「元雄神神社」とも言い、庄川流域の治水の水神として、流域の人々の崇拝を集めています。33年毎に行われる「御開扉」には10万人をこす参詣者で賑います。

天正13年(1585)の大地震で庄川の流れが大きく変わり、当時この地に鎮座していた雄神神社の境内地を残して周辺の村々が流されました。時の藩主前田利長が激流の中に樹木が繁茂する島(境内地)を見て「水の神」である弁財天を祀るよう指示。雄神神社は東側山裾に移転し、庄川の守り神として神社の御分霊と弁財天を祀る「元雄神神社」が創建されました。

砺波市指定文化財


西暦80年(景行天皇10年)創建

❼雄神神社(おがみじんじゃ)

雄神神社は、庄地区にある神社です。通称「庄の宮」と言い、庄下郷36ヶ村の総社です。

「雄神村」の名は、この神社の社名を取って名付けられました。

奈良時代、歌人大伴家持の「雄神河」の歌でも知られるように、この雄神神社にちなんで現在の庄川を「雄神河」と呼んでいたと考えられます。

祭神は、高龗神(山に降る雨を司る神)を主神とし、闇龗の神(谷間に流れる川を司る神)、瀬織津姫神(水神・祓い浄めの女神)を配祀しています。


増山城最後の城主、中川宗半の塚

➑宗半塚(そうはんづか)

中川光重は尾張(愛知県)出身で、初め織田信長に仕え、後に前田利家(加賀藩初代藩主)の娘婿となり利家に仕えました。後に巨海斎宗半と号しました。

天正13年(1585)、前田氏が越中三郡を領有すると増山城の守将に任ぜられ、増山在城時、恩光寺に金剛寺村で寺禄3千歩を寄進して再興しました。

文禄年間(1592~1596)に入り、一時期千利休門下の茶人として豊臣秀吉に仕えました。慶長19年(1614)53歳で没し、この地に葬られました。

砺波市ふるさと文化財(史跡)


加賀藩御用達の矢竹

❾矢竹禁伐林(やたけきんばつりん)

当地の矢竹は加賀藩より、軍用として質善良無比と認められ、禁伐林とし保護されました。

明治維新により禁伐林が解かれました。


杉の巨樹が二本林立する

❿恩光寺跡の二本杉(おんこうじあとのにほんすぎ)

南砺市福野にある金剛山恩光寺は、もともとこの地にありました。その開基は増山城主神保氏、開祖は月桂立乗禅師で、応永15年(1408)ころと言われています。

 永正年間(1504~)、一向一揆の騒乱、天正7年(1579)長尾為景などの兵火につつまれ、無住、再興を繰り返しました。

 今、この旧跡には薬師堂が残り、杉の二本左右にそびえ立っています。

 樹齢は400年~500年といわれ、樹皮は赤みが強く芯づまりで、地杉の一タイプであると言われています。

砺波市指定文化財


金峯山金剛寺に由来する

⓫金峯山西蓮寺(こんぽうざんさいれんじ)

金峯山金剛寺(こんごうじ)は、南北朝争乱時98代長慶(ちょうけい)天皇(てんのう)(南朝3代)の行在所として一ノ谷山(御坊谷)に、従者善恵師によって開山されたといわれています。寺の名前は長慶天皇が即位した河内長野の天野山金剛寺より名づけたものであり、寺院は修行道場をはじめ伽藍も整い周囲の寺坊を圧する主坊であったと伝えられています。永正元年(1504)堂宇を現在地に移し、浄土真宗金峯山西蓮寺に改称されました。

 金剛寺村(金剛寺地区)は、この「金剛寺」をとって、村名にしたと考えられます。

 


航空機工場予定地

⓬地下工場用トンネル跡

金剛寺の阿羅町神社の裏山から一の谷林道沿いの山の中腹に無数のトンネル掘削後があります。

これらのトンネル掘削後は、終戦近い昭和20年(1945)本土決戦に備えるために三菱第11航空製作所の機械部門を地下工場へ移すために掘られたものです。終戦直後まで工事が続き、約千人の人夫が働いていましたが、全体完成率45パーセントで中止になりました。